この文章はサラッと理解できてしまうものだと思いますが、よく見てみると「?」となる表現が含まれていませんか。
何となく気になっていた「ことば」があります。
それは、「言葉」という漢字で表現された「ことば」です。
表意文字である漢字で表現された「言葉」は、文字自体が意味を持ったものとなっているために音である話し「ことば」よりも文字によって理解をしようとするものとなっています。
文字よりも話し言葉の方が先に使われていたことは間違いがないと思われます。
「ことば」あるいは「ことのは」という音は文字のなかった時代も使われていたものだと思われます。
「万葉集」には「言葉」「言羽」「辞」の三種類の漢字が使われています。
その前では言語を表す「ことば」は「言(こと)」が一般的であり「事(こと)」と区別なく使われていたと思われます。
そこでは「言(こと)」は「事(こと)」と同じ意味を持ち事実にもなりうるような重い意味を持ったものであったと思われます。
やがて、事実を伴わないような軽い意味を持たせようとしたときに「端(はし)」を加えて「ことのは(言の端)」ができたのではないかと言われています。
その後の「古今和歌集」や「土佐日記」は仮名文字の初めと言われていますが、ここでは仮名の「ことば」が使われています。
「枕草子」では「詞」が使われ、「徒然草」では「言葉」が使われています。
決定打と思われるものは、最初の勅撰和歌集であり紀貫之が仮名によって記したとされる「古今和歌集」の仮名序にあると思われます。
「やまとうたは ひとのこころを たねとして よろづのことのは とぞなりにける」
「言の葉」が多く使用されることによって「言葉」として定着していったのではないでしょうか。
原意から見れば「言葉」は「話し言葉」に限定使用されるべきもののようです。
「話し言葉」という表現自体が「落雷が落ちた」「腹痛が痛い」のように二重表現になっているということもできます。
音としての「ことば」を表した「言葉(言の葉)」はより広く一般的に使用されるようになったと思われます。
原意からすれば矛盾とも思われる「書き言葉」という表現も、違和感なく使われるようになってなっていったのではないでしょうか。
「言葉」は音として伝わって初めて「ことば」として意味のあるものとなるのではないでしょうか。
言語の成り立ちから見ても、文字としての理解よりも音としての「ことば」としての理解の方がまさっているように思われます。
漢字という特殊な文字をうまく利用している日本語は、文字と言葉についてとてもデリケートな感覚持っているように思われます。
しばらくはこんなことを見てみたいと思います。
現在、世界で使用されている文字のなかで、文字自体が意味を持ったものとなっている表意文字と言われる文字は漢字だけであると言われています。
したがって、文字として漢字を使用しない言語においては、使用している文字はすべて話し言葉のための音を表す文字となっており文字を見てもその意味するところは分からないことになります。
ましてや、馴染みのない文字に出会った時にはその文字自体をどのように発音するのか分からないことになります。
理解するための手掛かりである話し言葉としての音を見つけることができないからです。
文字から音を見つけ出し、その音によって「ことば」の意味について推測することが行なわれていることになります。
文字からその意味を確認している認知行為としては、文字→音→ことば→意味という活動が行われていると考えることができます。
しかし、同じ文字に対してこのことを繰り返しているうちには、文字を見ただけでいきなり意味に結びついてしまう文字→意味ということが起こるようになります。
同じことを繰り返しているうちに過程が省略されて、記憶として残っていることへ直接結びつくことが起きていると思われます。
標識に用いられているような誰もが簡単に見ただけでわかる文字はその典型ではないかと思われます。
英語のJapanに対して日本という国を表す文字であることを知らない人はいないと思います。
音としての発音が英語としての発音ができなくともJapanという文字と日本が直接結びついて記憶されているからです。
同様にChinaという文字に対しては中国という国を表わす文字であることを知らない人はいないでしょう。
しかし、それぞれの文字が文中において小文字で始まると漆器(japan)と陶磁器(china)を意味する「ことば」として使用されています。
大文字で始まる国名である固有名詞を表す文字を利用した表意文字ということができるものとなっているのです。
音としては全く同じものですので、文としての脈絡や冠詞で判断しないと分からないものとなってしまいます。
また、japan=漆器、china=陶磁器を知らない人にとっては音からその意味を想像することは、「風が吹けば桶屋が儲かる」的によほどの想像力を働かさなければかなり難しいことになります。
現実にはほとんど困難だと言ってもいいのではないでしょうか。
そのようにして見てみると、どの文字についても完全なる表意文字や完全なる表音文字だけの文字はないのではないかと思われてきます。
特にその成り立ちが表意文字であった漢字であっても、音を持たない漢字は存在しません。
漢字の持っている音を利用してその文字の持っている意味とは異なる「ことば」を文字化することは十分に可能だと思われます。
「夜路死苦」と書いて「よろしく」と読ませる落書きが目立ったことがあります。
まさしく漢字を表音文字として利用した表記です。
「夜道の一人歩きは気をつけましょう」というよりもインパクトを持った表記ではなかったでしょうか。
日本語の持っている仮名も、その成り立ちは漢語の読みを利用して文字のない和語(古代やまとことば)を表記するための文字として使用したことが始まりです。
それが草体化してひらがなという表音文字になったことはご存じのとおりです。
文字として意味を持った漢字とは言っても、その意味の持ち方には何種類かあると思われます。
そもそも文字という「ことば」が、文字のなかった時代から使われていたものとは考えにくいことです。
文字という概念すらないわけですらそれを表す「ことば」があったとは思えません。
「文字」という「ことば」がどこから来たのか見てみました。
どうやら「文」と「字」というふたつの「ことば」から来たようです。
「文」は音読みの「ブン」ではなく「もん」から来ているようです。
明確な分類がされている資料がありましたので参考に記しておきます。
「文」と「字」
「文」は漢字のなかでこれ以上分解することができない単体の文字のことだそうです。
「文(もん)」とは着物を重ねた時に胸元できれいに襟が揃ったことを表す象形文字だそうです。
「あや」とも読みますね。
文字としては象形文字として実際に目に見えるものを具体的に絵として描いてその物を表現して漢字とするものと、指事文字として実際には目に見えないものを点や線で暗示的に表現する漢字とするものであるとあります。
象形文字としては、日・月・川などが例に挙げられています。
指事文字としては、一・二・三の数字や上・下などが挙げられています。
この二種類が分類としての「文(もん)」になり、すべての漢字の基本になるものだそうです。
「字」は「文(もん)」を組み合わせてさらに複雑な意味を表わそうとしたものだと言われています。
文字としては会意文字と言われている意味のある「文(もん)」を組み合わせてさらに複雑な意味やより具体性を持ったものを特定しようとするものと、形声文字と言われている部首を持って一方で発音を表しもう一方でそれが何に関係するものであるかを表すものとされています。
会意文字としては、武(弋+止)・信(人+言)などが挙げられています。
形声文字としては、河・家・味などとなっています。
一般的には意味を表す部分と音を表す部分を合わせて作られたものとされており、漢字全体の7~8割がこれにあたると言われています。
いつごろまで「文」と「字」が区別されていたのかはよくわかっていませんが、初めて知る分類でしたのでとても興味を持ってみることができました。
「言葉」というものは原意を離れて使用されてきており、もはや話し言葉だけを意味するものではなくなっていると思います。
文字で表現されたものに対しても「言葉」という表現を使っても違和感を感じることがなくなっているようです。
話し言葉としての意味を強調したい場合には「ことば」と仮名表記するようにしていった方が原意を表しているのではないでしょうか。
漢字表記をすることによってその文字の持っている意味をくみ取ることは可能ですが、すべてを表しているとは限らないからです。
漢字があることによって日本語を複雑にしていることは間違いのないことですが、漢字によって言語として日本語が様々な面で助けられていることも間違いないと思われます。
文字としての漢字の意味とその文字によって音として表された「ことば」の意味が一致していないものがたくさんあるのも日本語の特徴なんでしょうね。
特に外国の言葉を日本語に翻訳した漢字表記は、ほとんどのものが一致していないと思った方がいいのではないでしょうか。
漢字によって表現されたことによって安心してしまっている自分にあらためて気がつきました。
漢字として表現したときに文字として持っている意味が邪魔をすることもあることに初めて気がついたところです。
あらためて「現代やまとことば」の威力を思い知ったところです。
「文字と言葉」は思いつくたびに、また新しい発見があるたびに見つめていきたいと思います。