このブログを書き始めたときにいつかは触れなければいけないテーマとして万葉集がありました。
しかし、万葉集については過去において各方面の権威ある方たちが様々な評価をしてきており、私見とはいえ迂闊なことは言えないという思いがあります。
それでも「やまとことば」を語るには、その原点ともいえる万葉集を避けて通ることはできないと感じ、今回できる範囲で触れてみることにしました。
万葉集は現存する最古の和歌集であり、文字としては漢語を用いながら音としてはそれ以前から使用されていた話し言葉である原日本語を表現したいわゆる万葉仮名を特徴としています。
ひらがなの原点ですね。
およそ550年ころに日本に伝わった仏教経典が漢語の原点と思われますが、720年には正史としての日本書紀が完成されています。
それ以前に古事記があると思われますが、古事記においてはあまりにも不確かなことが多く、年代も存在も推定の域を出ません。
そして750年以降くらいに万葉集が成立していると考えられています。
日本書紀はほぼ正規の漢文で書かれており(後半部はかなり日本語よりの漢文のため編者が異なったといわれています。)、正史の記録として漢語が使用されたことを表しています。
万葉集は7世紀後半から8世紀半ばくらいまでの、天皇・貴族から下級官人・防人までの和歌を4500首以上集めたものです。
文字のない中で歌い継がれてきた和歌を、万葉仮名を編み出しながら記録する作業は膨大な時間を必要としたことでしょう。
そしてこのことはそれまでの話し言葉である原日本語に対して、漢字の使い勝手を開発する壮大な試みだったのです。
話し言葉として音だけであった原日本語に、その音を表す書き言葉としてのひらがなができたのです。
言語としての日本語の成り立ちは、記録として現存するものとしては万葉集を持って起源とすることになると思われます。
ところがひらがな文字は漢語に対してより程度の低いものとして扱われることになります。
政府の公式記録や文書はもとより、男は漢語が使えないと恥ずかしいことになります。
出世にも影響したことでしょう。
一方、漢語の一部分を用いて作り出されたカタカナは漢語を読むための補助語として使用され、漢語と同様に男性にしか使われていなかったものと思われます。
935年に紀貫之が女性の筆者の振りをして「土佐日記」をひらがなで書きあげるまでは、勅撰の和歌集「古今集」にくらいしか男性によるかな文字の記録は見ることができません。
しかし、宮廷であっても女官はひらがなを使いました。
女性や子供の使う言葉としてひらがなが発展し継承されていきます。
どんな階級までひらがなを使っていたのかは定かではありませんが、歌を詠むことのできる階級には漢語よりもはるかに使いやすいこともあり、かなり広がっていったと思われます。
平安時代はいわゆる古今調(「たおやめぶり」といわれる)の歌が主流となって、多くの女流歌人が活躍をしました。
文化としての和歌がある限り男性でも万葉仮名・ひらがなは必要であり、すべてが漢語のみではなかったと思われます。
むしろ、記録のための公式文字が漢語であっただけで、普段の生活の言葉は今までの話し言葉である原日本語(この段階ではある程度は漢語の影響を受けて変化してきていると思われます。)に変わりはなかったと思われます。
つまりは、このころより母語は今とほとんど変わりのない形で形成されていったのではないでしょうか。
それ以降は上流階級の子弟の教育のために競って文学的素養のある女官が登用され、日記や物語が数多く作られるようになります。
かな文字物語の最初の作品として有名な「竹取物語」は、作者不詳となっていますが紀貫之の作ではないかと言う説もあります。
そうだとしたら、紀貫之は「古今集」の編者でもあり「土佐日記」も含めて、かな文学の普及に多大な影響を与えた人物と言うことができるでしょう。
この後は、競うように文学的な素養のある女官が上流貴族に採用され「蜻蛉日記」「枕草子」「源氏物語」と繋がっていくことはご存じのとおりです。
万葉集と言う名にもどのような意味があるのか諸説あります。
「よろずの言の葉(ことば)」を集めたものだとするものや、「よろずのよ(世)に伝うべく」集めたものだとするものなどがあります。
その役割をみれば言葉と結びつけたくなる気持ちはよくわかります。
これも定説はありませんので楽しみたいところですね。
苦労して作った言葉を、女性が継承しつづけて今に伝わっているのがひらがなです。
日本語の歴史は母性の中にタイムカプセルのように継承されてきているのでしょう。
政治的に位の高い男がわざと難しい言葉や新しい言葉を使いたがるのは、歴史上果てしなく継承されてきているようですね。
日本語の持つ感性は女性から学ぶほうが正しい方法なのかもしれませんね。