日本語には同じように文字で書かれてあっても、目で読むための文と口に出して発するための文があります。
読むための文がいわゆる散文であり、口にするための文が韻文ということになります。
韻文には押韻として音(特に母音)で合わせるもの(韻を踏むといいます)と、音数律として発音する字数で一定の数に合わせるものがあります。
押韻には頭韻と脚韻があり、始まりの音で韻を踏む場合と終わりの音で韻を踏む場合があります。
脚韻の例
このだだっ広い世界にただ独り
狭い心を閉じ
己の力ばかりを強く誇示
この3行は最後の音が「り」「じ」「じ」となっていてすべて母音の「い」で終わっており、韻を踏んでいます。
文字の長さに基準はありませんので、ただ韻を踏んでいるだけでは文にリズムが生じるわけではありません。
これに対して音数律のほうは読んで字のごとく、音の数を定められた数にあわせるために文にリズムが生じます。
音数律の典型が歌であり音の数として5音と7音の組み合わせでできています。
俳句・川柳(五・七・五)、短歌(五・七・五・七・七)、旋頭歌(五・七・七・五・七・七)、ほかには仏足石歌(五・七・五・七・七・七)、長歌(五・七・五・七・・・・五・七・七)、蓮歌(五・七・五と七・七を繰り返す)などがあります。
今でも、標語には5音と7音の組み合わせがとても多くて、一息で言えて耳にやさしく覚えやすいものとなっています。
この5音・7音の組み合わせが文にリズムを与えており、歌となっているのです。
さて、この5音と7音の組み合わせはどこから来たのでしょうか。
いろいろな方がいろいろな観点から説を述べらていますが、これといった決定的な定説はいまだにありません。
また、得意な私見を述べたいと思います。
二つの見方をしたいと思います。
一つ目です。
いくつかの過去の実験結果によれば、日本語を普通の速さで一息で発せられる音数は12音前後までとなるようです。
もちろん、個人差や呼吸を鍛えた人など特異性のあるものを除いた結果だそうです。
一息で12音を普通の速さで言い続けますとすぐに息が続かなくなります。
そこで12音の途中で息を継ぐことになります。
もちろん、半分の6音ということは誰しも思いつくでしょう。
もしかすると、初めは6音だったかもしれませんし、4音・8音だったかもしれません。
そのうち5音・7音を使うことも出てきます。
そこにはまった言葉とリズムは他の息継ぎ音数よりも、とても心地よく響いたことと想像できます。
短歌というのは日本独自の文化であり、日本の中で出来上がった文化です。
あの五・七・五・七・七の形が文学形式として出来上がるまでには、相当長い間5音・7音が使われていたと考えることができます。
5音・7音は文や言葉にリズムを与える魔法の音数律なのです。
さて、もう一つの5音・7音のリズムについての見解は、音楽からです。
私自身が曲を作りますので、作詞もすれば作曲もします。
そこから導き出したものです。
音楽の標準拍子は4分の4拍子です。
5音・7音を音符で表すと ♩♩♩♩ǀ♩,,, ♩♩♩♩ǀ♩♩♩, とすることができます。
仮に歌の文句でも「あなただけ、あいしています。」としてみましょうか。
リズムとしては「あなただ・けーーー、あいして・いますー。」となりますかね。
前半部の「けーーー」が間の抜けた感じになりますね。
ためしに倒置法で「あいしています、あなただけ。」としてみます。
♩♩♩♩ǀ♩♩♩, ♩♩♩♩ǀ♩,,, 7音・5音の並びですね。
リズムを入れれば「あいして・いますー、あなただ・けーーー。」
おっと、名曲の1フレーズができてしまいました。
「-」の長さまでもがぴったりはまっています。
仮に前半部を「あいして・いますよ」と8音にして「-」を取ってしいますと、後半の「あなただけ」につづく余韻がなくなってせわしなくなってしまします。
最後の「あなただ・けーーー」の「-」三連もエンディングらしい素晴らしい余韻を持った終わり方になっています。
4分の4拍子は1小節4拍が4小節で1セットです。
現代の曲でも5音・7音は作詞の基本です。
そしてサビの部分(クライマックス)や途中の展開のところで7音・7音を持ってきたりします。
4分の4拍子は日本人の基本リズムです。
はるか昔からあったとしても何ら不思議ではありません。
そこから自然と生まれた5音・7音の組み合わせではないでしょうか。
最近、曲を作っていると詞を書くときもメロディを作るときも、どことなく古代・やまとことばの影響を感じる時があります。
作詞や作曲について何の理論も学んだこともない私が、お世辞でも人様にいい曲だと言っていただけるものができるのは、母語が持つ日本語の感性なのかもしれないと感じています。
自分の能力以外の何かが表現することを手伝ってくれているのでしょうか。