日本語は英語等に比べると文における主語・目的語に対する重要度が低いと思われます。
つまり「誰が」と「誰に」をはっきりしようとする姿勢に欠けると言うことができると思います。
では、「誰が」と「誰に」を軽視しているのかというと、尊敬語・謙譲語・丁寧語に代表される敬語の多さや人称代名詞の多さを見れば決してそうも言いきれないところでしょう。
このことは個の存在に焦点を置き主体(主語)の存在を明確にしようとする英語等の文化と、自分(主体)の周りとのかかわりに表現のこだわりを見せる、いわば相手志向といえるの日本語の文化の特徴を表していると思われます。
川端康成の名著「雪国」は各国の言葉に翻訳されています。
代表的な翻訳のうち英語と中国語で記されたものの中で、主語がどのくらい付けられているのか
見てみたいと思います。
冒頭の40文前後を調べた結果が残っています。
日本語の原作においては主語が表示されているものが約55%あるそうです。
それに対して英語訳では98%の文に主語が付けられています。
中国語では約90%の文に主語が付けられて翻訳されているとのことです。
もちろん、日本語にも言葉としても文法上も主語は存在します。
それどころか、どの言語よりも豊富な人称代名詞を持っています。
それにもかかわらず何故主語が省略されることが多いのでしょうか。
主語があったほうが簡単に表現できるのに、わざと省略しているとしか思えません。
主語がなくても意味が通るためには、主語以外の言葉を使いながら主語が容易に想像できる文を作らなければなりません。
ものすごい技です。
そのためにものの表現や敬語が発達したのではないでしょうか。
私たちは母語としての日本語を持っていますので、主語を付けるか付けないかなどと意識することはありません。
自然と主語なし文を使い、理解しているのです。
主語なし文の作り方、使い方を習ったことはありますか?
ないですよね。
それでも身についているんですね。
主語なし文の継承には母語としての日本語が持つ奥ゆかしさの文化が流れているのではないでしょうか。
主語を使ったほうがいいのであれば数多くの人称代名詞を持つ日本語はいつでも使うことができたはずです。
それにもかかわらず「わたし」を表に出さず、もののあわれを読みつつ心情を表現したり、花にたとえたりしてきました。
何という素晴らしい技巧でしょうか。
主語なしの文は使うほうだけが技巧にこだわっても決して成立しないと思います。
受け取る方、読み手のほうが相手の言わんとするところを推し量る心があって、初めて成立することだと思います。
なんと素晴らしい文化でしょう。
「私は」「私が」、「君は」「君が」がたくさんある文は生理的に受付けないようになっているんでしょうね。
自己主張が大切なテクニックとなってきている時代においては、本来の日本語は向かないのかもしれません。
それでもそこを乗り越えて、日本語の本来の姿でもきちんとアピールできる表現方法を身につけていきたいですね。
日本語は幾多の危機を乗り越えて、昔ながらの姿を伝えてくれる世界でも数少ない言語です。
また上手に乗り越えることができるといいなと思っています。