当時の最文明国のヨーロッパの文化を一気に取り込んだ時です。
夏目漱石にして「こんなに安易に他国の文化を一気に取り込んでしまっていいものか」と警告を発するほどだったといわれています。
特にそれまでの日本語の概念になかったものは、訳すことではなく言葉を作ることから行われました。
漢字は造語力がものすごくありますから本当に様々な素晴らしい言葉が作られました。
「範疇」「哲学」「美術」「人格」「世紀」「絶対」「統計学」などはみんなこのころ作られた言葉です。
この時にヨーロッパの文化をひたすら日本語(特に漢字)に置き換えることが知識層によってなされました。
その筆頭が福沢諭吉です。
それまでの概念になかった民主主義やそれに伴う法律の整備が急務でした。
「スピーチ」ということば民主主義にはとても大事な言葉で何とか日本語にしたいと頑張りますが、適当なものがない。
そこで諭吉はお坊さんが仏の教えを説くときの「演説」という仏教用語を持ってきました。
「トーク」を「談話」としたのも諭吉です。
その福沢諭吉がかの西洋事情という本の中で「訳字を持って原意を尽くすに足らず。」、つまり翻訳不可能だと言っている言葉があります。
民主主義においては根幹をなす、これによって革命がおきたり戦争がおきたりする「ライト(ヒューマンライト)」という言葉です。
諭吉はこの言葉の重さを十分に分かっていたと思われますが、そのことが災いしたのかもしれません。
そこに登場したのが西周です。
それならば私が訳してみせると言って、諭吉の真似をして仏教用語から「権利」という言葉を持ち出してきました。
その結果「ライト」は「権利」になってしまいました。
もともと権利という言葉は「力づくで得る利益」のことです。
仏典や中国の本の中では「権力と利益」の意味で使用されています。
正確な意味は分からなくとも私たちの体の中には「権利」という言葉に何となく悪いことだという感覚があります。
これが母語としての日本語をもっている感覚のひとつです。
「権利」という言葉が出てくると反射的に「義務」という言葉が思わず出てきませんか?
日本人の中には「権利」というのは何となく悪いことだという感覚が染みついていきます。
明治維新からから100年以上がたって、もともとあった「ライト」と「権利」のギャップはさらに大きくなっているのではないかと考えています。
もう一つこれは諭吉が翻訳した言葉です。
「フリーダム」に「自由」という言葉を持ってきました。
中国伝来の「自由」は「わがまま勝手のし放題。思うがままに振る舞う。」という意味です。
「フリーダム」と「リバティ」にこの「自由」というマイナスのイメージのある言葉を当ててしまいました。
日本語を母語とする私たちにとっては正確な意味は分からなくとも、「自由」という言葉はよくないこととして遺伝子的に染み込んでいます。
したがって、民主主義では考えられない「自由」を敵視したり制限したりすることがおこるようになりました。
100年以上を経過して言葉の間にあった微妙なずれが、今どうなっているのかもう一度日本語を考える機会になったらいいなと思います。
もうじき、伝えるための道具としての外国語を勉強する必要のない瞬間自動翻訳の時代が来ます。
その時に必要なのは思考そのものである母語を使いこなす力ではないでしょうか?